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『波の上のキネマ』

(集英社、2018年)書評

 映画は、お好き?
 誰しも、チャンネルを変えていたら偶然テレビでやっていたり、レンタル屋でなんとなく借りてみたり、デートで映画館に行ったりして、映画をみた経験は必ずあると思います。
 好きかどうか、自分ではわからないという方もいるかもしれません。しかし、お好きでなくても、この『波の上のキネマ』を読んだら、絶対に映画を好きになることを請合います。それほどまでに映画愛に満ちた小説です。

 書店のポップに置いてありそうながら、一番書きたかったことが以上です。

 

 以下、ネタバレしない程度の、簡単なあらすじの紹介と、私の読後の所感である。

 この小説の主人公は、経営困難に陥った映画館の支配人であり、同時にその映画館を開業した祖父である。映画館と聞けば、普通、都市や商業施設にある大きな劇場、いわゆるシネコンが想像されるだろうが、そうではなく、今はほとんど残っていない「町の映画館」だ。
 映画が一大娯楽だった昔、映画館は、日々の疲れを癒すレジャー施設のようなものであり、日本中のどの町にもあった。減少しているが、かろうじて生き残っているところも少なくない「町の本屋さん」のように、一昔前には、必ず1つの町に「町の映画館」が、ともすれば何軒もあったのだ。
 客足が遠のき、経営不可能だと考えた主人は、祖父が戦前に創業し、現代までかろうじて生き残ってきた町の映画館「波の上のキネマ」を、ついに閉業しようと思い立つ。だが、町の歴史となり、風景となり、人々の思い出を形作ってきた場所を、どうしてそう簡単に閉めることができよう。   そこで、相談した同業者に感化され、「波の上のキネマ」映画館の歴史を調べることになる。

 そして、祖父が映画館を開業するまでの悲惨な過去が、臆すことなく暴かれていき、映画という娯楽が、私たちにとってどのような存在であったのかが、まるで映写機のピントが徐々に合わされていくように、明瞭になっていくのだ。それは、今、映画の娯楽における地位が危ういときこそ、再認識しなければならないことだ。

 とはいえこの小説は、映画を主題とするには言葉が足りなさすぎる。というのも、未開の地をひた走る冒険小説でもあるし、1930年代〜40年代の日本を舞台とした、戦時下の悲惨な戦争小説でもあるのだ。こんな風に書くと何がなんやら分からないだろうが、私はこれ以上書いて、読者の楽しみを削ぐようなことはしたくない。この小説は、ストーリーが、抜群に面白くできていて、映画好きでなくても、大変面白く読める物語になっている。(もちろん、映画好きにもたまらない。チャップリン、グレタ・ガルボ、ルノワール!本当に愛おしい本。)
 ラスト、現在と過去の交点に、いったい何が生まれるのかは、是非とも読んでご確認していただきたい。

 ところで、時代は進歩するものだ、上の世代を否定して、新たに私たちの時代を作っていくのだという若者の風潮は、それほどなくなっていないのではないか。むしろ、表面化していない以上、それはひどくなっているかもしれないとさえ私には思われる。
 教科書的に歴史化されていない過去は過去として注意を向けず、上の世代からの言葉を聞く前からしりぞけておいて、進歩なぞと思うのは大間違いだ。いま、たしかに技術は刷新されたのかもしれないが、それでも、時代の精神は衰退しているのじゃないかと、同世代の人間性や、ネットを見るにつけ、そう、不平をこぼさずにはいられない。それは私の考え過ぎなのかもしれない。しかし、新しさは、過去なくしては生まれないことは確かだ。
 増山実氏は、消えゆくある、または消えた文化や生活や、時代の陰で虐げられている人々に思いを馳せ、それらに気を払うことも忘れてはならないのだというメッセージを、小説で投げかけているのだと思わずにはいられない。

(文学部 三回 Y君)

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