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『空の走者たち』

(ハルキ文庫、2016年)書評

 人に本の内容を語るのは難しい。というか、僕は苦手だ。

 本から受け取ったイメージを繋げようとしている内に「こんな話もあって、あとあの話も面白くて……」と付け加えを繰り返し、結局はパッチワークで作られた本のゾンビが出来上がってしまって、何だか本に申し訳なくなる、ということがよくある。特にこの本から抽出されうるテーマは多様だから尚更のこと難しい。

 東日本大震災の中で前向きに生きる人達の姿を描いている、書物によって歪められた陸上選手の実像を描いている、福島県の須賀川市という地に根付く様々な人の記憶とこれから紡がれるかもしれない物語を描いている——多分、何が一番印象に残るかは人によって異なると思う。ウルトラマン世代の人だったらもっと円谷英二の名に心動かされ、全く違う読みをするだろう。(須賀川市は円谷英二の故郷なのだ。ちなみに、来年一月には円谷英二ミュージアムが開館するとのこと)

 だから、どういう物語だと一つの解答を用意するのは違うだろう。僕がどう感じたか、それだけが僕に話せることだ。

 この物語をどんな話として受け取ったのか——僕にとっては、この作品は「空の話」、それも未来と過去を含めた切れ目のない、優しい居場所の話だった。

 

 本作品では、須賀川市から少しだけ離れた郡山市の記者である田嶋康介、やりたいことが見つからずに悩む少女の円谷ひとみ、27歳という若さで自殺をした東京オリンピック銅メダリストの円谷幸吉、さらには須賀川に訪れ、幻が映るという「かげ沼」に興味を持つ松尾芭蕉の話が、視点を変え、時代を変えて交差していく構成となっている。ひとみが2020年の東京オリンピック、女子マラソンの代表に選ばれるまでにどんな物語があったのか、忍耐の人として知られ、そして堅物のイメージで知られる幸吉が銅メダルを取ったレースの途中に空を見上げて微笑んだのはなぜだったのか、この二つが大きな主軸となり、最後まで読者のページを繰る手を動かし続ける。

 ひとみと幸吉の物語について、ここで語りたいのは確かなのだが、まだこれからこの本に出逢う人達のためにも遠慮しておく。それは、またいつかどこかで、あなたにお会いして話す楽しみになると思う。

 だから代わりと言ってはなんだが僕がなぜこの物語を「空の話」だと感じたのかを話そう。

 それを語るためには、ひとみや幸吉のように空を見上げる必要があると思う。それは明るい雲一つない空かもしれないし、帳を下ろした物言わぬ夜空かもしれない。しかし、見上げる空は連綿とどこまで続き、僕たちが暮らす世界を、美しいものなのだと、移りゆくものなのだと異化した形で提示してくれる。その空はどこかへと続き、繋がることのできない誰かの、通り過ぎてしまった場所の世界をも彩っている。広がりある優しい空間、それがこの作品に感覚としてあるのではないだろうかと、僕は思う。読み終えた後に残るのは、清々しさであり、切なさであり、そしてきっと明日も頑張れるようなそんな心強さなのだ。

 

 私がこの作品を読んで思い出した一つの歌がある。

 

 夜を重ね待兼山のほととぎす雲井のよそに一声ぞ聞く

 

 これは僕らの通う大阪大学豊中キャンパスが位置する待兼山で詠まれた和歌である。収録は新古今和歌集、平安時代後期の歌人、周防内侍の歌だ。

 周防内侍といえば百人一首にある「春の夜の夢ばかり手枕にかひなく立たむ名こそ惜しけれ」で、これは耳にしたことがある人もいると思う。声を掛けてきた男性を浮名が立つのが嫌だから、と断るウィットに富んだ歌だ。

上に挙げた歌を現代語に訳すれば次のような感じだろうか。「幾晩かの時を重ねて待った、待兼山のほととぎすの鳴く声を、雲のむこうに一声だけ聞いたような気がしました」。

 周囲の、まだ未熟ながら色づいていく木々の兆しに身を焦がしながら、ふと雲の彼方に季節の訪れを感じるといった様子、それが情感豊かに詠まれていて、さすが四人の天皇に仕えた宮廷歌人といったところだろうか。

 僕はこの歌に隠された意味があるのではないかと思っている。

「ほととぎす」は古来、初夏の訪れを示す季語であると同時にもう一つ別の意味があった。

 ほととぎすの異称は「死出の田長」であり、死出の山、人が死後に行く冥途の道中にある山からやって来ると考えられていた。つまり、死者と生者の仲介者であり、僕は、彼女がこの歌を、死に際して嘆き悲しんだ後冷泉天皇のことを、あるいは過去の大事な人を想って詠んだのではないかと思っている。季節の訪れを、死者とのもう一度だけの邂逅を望む切ない心情、それがこの歌に抱くイメージだ。そうしてまた重ねる夜は寂しいものかもしれない。しかし、ふと見上げた空にほととぎすがいるような感情を持つうちは、きっと前を向いて生きることができるのだと思う。

 

 時を越えて、空間を越えて語られるステキな「絵空事」。空の走者たちの物語を皆さんにも体験していただきたい。

(文学部 三回生 N君)

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